7月15日、兄が他界しました。享年58歳。
お誕生日の前日だったので、まるまる58年間を生き抜いた人生は兄らしかったのだと思います。
6歳上の兄は幼い頃からカッコよくて大好きなお兄ちゃんでした。そこまで年の差があると、ケンカしたというのはほとんど無かった気がします。
どちらかと言えば、遊ばれていた?末に私が泣くというパターン(笑)。

アメリカ好きだった兄は、よく私に戦争ごっこをやらせました。もちろん彼はアメリカ軍。私はドイツ軍のヘルメットをかぶらされ、いらないシーツに穴を開けてそれもかぶらされ、空気銃を持たされました。
兄が高らかに「戦争ごっこ〜パパラッパパ〜〜〜」と言うと、私は標的にされ、連射されるのです。
もっと幼い頃のこと。
私はまだ三輪車に乗っていました。「俺が後ろから押してやる」と言って、家の前の道路を思い切り押され、私はカーブを曲がりきれずに大転倒し大泣きしました。もちろん兄は母から思いっきり怒られたはずですが、よく生きていたと思います。
そんな思い出は数えきれないほど。
もちろん優しい思い出も数えきれないほどあります。
中学2年の夏、シアトルに短期留学した時のこと。
ちょうど兄もアメリカのオレゴン州に留学していました。英語に困っていた私に「喉乾いたは、I’m thirsty、お腹すいたは、I’m hungry、何々したいは、I’d like to」とわざわざ顔を見に来てくれたんです。
私が高校生になった時のこと。
ちょこっとやんちゃだった私は、両親に心配をかけていました。夏休みに悪い友達とつるまないために、兄に相談し、私を海外へ連れ出すようにしたんです。
アメリカにいた兄は、日本に私を迎えに来てくれて、ハワイとLAへ連れて行ってくれました。初めての兄妹二人旅だったかも。
ハワイではレンタカー借りてドライブしたり、LAではUniversal Studioへ行ったり、楽しかったなぁ…
そうそう、私が留学していた頃。
当時ミシガン州にいた兄を訪ねて行ったっけ。パイロットの免許を取っていた兄は、得意げに「乗せてやるよ」といって、兄の操縦する狭いプロペラ機に乗りました。管制官と流暢な英語でやりとりした姿を見たときに、「うわ!すごい」と唸った記憶があります。
お互いに大人になり、距離があいた時もあったけど、とにかく仕事のたびにアチコチ転居する兄を訪ねて行っていました。
結婚して暮らしていたアリゾナ、その後日本に転勤になった先の神戸、横浜に引っ越してきた時は近かったし、よく行ったなぁ。
私が今、多くの時間をニセコで過ごし、活動拠点ともなっているのは兄がいたからこそです。
今から15年位前、当時ニセコばっかり行っていた兄に、「お兄ちゃん、ニセコで何やってるの?」と聞いても「教えてやらない」と言われていました。しかし、あることがキッカケでニセコを紹介してもらうようになり、それから私の人生は大きく変わりました。
今でこそ私の名前を覚えてもらっているけど、最初は誰にでも「アイクさんの妹なんだ」「へえ、妹いるんだね」なんて言われてたんです。
兄が50歳を過ぎ、私が40歳を過ぎたというのに、一緒にBCスキーや夏山に行ったり、SAPやカヤックに行ったり。
距離感が不思議な兄妹関係だった気がします。

それでも兄らしい反面も多々ありました。
私が乳がんになった時、手術や抗がん剤で辛い治療の期間がありました。当時一人暮らしだったのですが、「うちにおいで」と私を1年間半、引き取ってくれました。
味覚障害に陥って食欲がなかった時、食べられるものを買ってきてくれたり、精神的に辛くなりどうしようもなかった時、「海が見たい」というわがままを聞いてくれ車で館山に連れて行ってくれたり。
こうやって思い出を書いている目の前に、父と母に挟まれた兄の遺影があります。なんでそこにいるの?生きてないの?と、私の中では現実ではありません。
何か困った時や聞きたいことがある時に電話をすれば、「もしもし、なに?」と出てくれる気がします。
いつの日か受け入れられるのかなぁ…お兄ちゃん。