エルブルス遠征〜高度順応のためウルタウへ〜


モスクワ観光を終え、全員揃ったところで翌日の朝、国内線で南南東方面、ミネラルヌィ・ドボイ(ミンボディ)に飛びました。

 

迎えに来てくれたのは小さなワンボックスカーとドライバーさん。えっ?ここに荷物全部と私たち総勢7名が乗るの?

でしたが詰める詰める→のちにこの積み重ねが大変なことを招くのですが。

<ちなみに私のスキーが一番下>

 

しかし、ロシアの道路事情は恐るべし。

よく世界仰天ニュースってあるじゃないですか。海外で対向車が来て、「うわ〜ぶつかる!」という寸前でかわすやつ。

一言でいうと、その連続でした。

片側1車線通行プラス牛がたくさんいるところで、なぜか3台ですれ違うって感じ。何回目を閉じたことか…

 

英語が全く通じないドライバーさんに連れられて行ったのは、レストランらしき建物。看板も何もないので、普通の家に入ったのかと思いましたが。

 

どうやらここでランチしながら、今回の現地ガイドを待つらしいです。しかし待てど暮らせどやって来ず。4時間近く待ってようやくやってきたガイドは、めっちゃ明るいロシア人のIvan。何とカムチャッカにガイドで行っていて、飛行機が遅れたみたいです。しかしカムチャッカとは〜〜

 

その後、再び狭い車内を過ごし着いたところは断崖が迫る渓谷の突き当たりでした。

 

こんなリフトに車ごと乗ることもあるらしいけど、私たちは荷物と自分たちだけ乗って上へ。

そこで幌トラックに乗り換え、目指すはウルタウです。

 

ウルタウエリアはジョージア(昔のグルジア)と国境を接している地帯なので、ロシア軍の管轄エリア。そこに入るための許可証を日本で取るのに時間がかかり大変だったのです。

 

すぐにロシア軍の検問所があり、一人一人呼ばれてはチェックを受けました。ちなみに撮影はNGとのことなので写真はナシです。

 

無事に全員検問を終え、さあ目指すは渓谷の奥ですが、まあその悪路のすごいこと!2時間くらいドッタンバッタン揺られ、ほとほと疲れ果ててようやく山小屋に到着しました。

<荷物と一緒に全員荷台へ>

 

<到着したのは真夜中>

 

そのドッタンバッタンも積み重ねに加えられ、翌日の悲劇へと続くのでした。



Elbrus遠征〜想いを詰め込んで〜


気がつけば8月ももう少しで終わり。

兄が亡くなって、あっという間に一ヶ月半が過ぎようとしています。

書きかけのエルブルス遠征について、再開しようと思うのですが、その前に今まで書けなかった兄の急変とどう向き合ったのか?を書いておこうと思います。

 

兄の体調が急激に悪くなったのが4月の後半でした。

3週目の立山ツアーから帰ってきた時、当時兄と一緒に暮している洋子さんから連絡が入りました。

 

体調の急な悪化と、この先の覚悟についての主治医からの話についてでした。

 

その電話を切った後、ソファーに座り込みしばらく動けず震えている私がいました。

 

緩やかに兄のガンは進行していたので、思いっきり長生きは出来ないだろうとは思っていたけど、まさかこんなに早くだなんて。

しかも、遺伝子治療の治験が始まり、その土俵に乗ることができたと、とても嬉しそうに話していたはずなのに。

 

治験というのはいろんな制約があり、なかなか難しいものです。

これまでにこの薬剤を使用していたらダメとか、この治療を受けていたらダメとか。過去のことは変えられないから、まずは土俵に乗れるのかどうか?が大きな1歩につながります。

 

しかし神様とは無情なのでしょうか。

治験のスタート前の数回にわたる全身検査で、最終的にGOが出なかったのです。結果的にしばらく無治療になったこともあり、それまで弱ってきていた身体ではガンの進行が抑えられなかったのでしょう。

 

入院はしたくないという兄の意向と、できるだけ家にいさせてあげたいという洋子さんの意向もあり、在宅で介護となりました。

 

私もできるだけ顔を見に行き、腰や背中の違和感を訴えていたのでマッサージをすることにしました。

 

悩んだのはエルブルス遠征のことです。

「行くことができるのだろうか?いや、それ以前に行っていいのだろうか?」

「万が一、私がいない時に何かあった時、私は後悔しないのだろうか?」

 

まずはたっちーに全ての状況を打ち明け相談することにしました。

 

たっちーの意見としては、

「この先、こんなメンバーでのエルブルス遠征の機会はおそらくやってこないと思うし、ゆきこさん自身にとっても、このようなチャンスは無いと思いますよ。何より、ここまでやってきて行かないのは、お兄さんが喜ぶのでしょうか?」

 

確かに兄は私がエルブルスへチャレンジすることを、本当に楽しみにしていて、心の底から応援してくれていました。

 

悩みに悩んだあげく出した結論が、

 

「行こう、そして絶対に成功して無事に帰ってこよう」でした。

 

たっちーには、「この先何かあったらキャンセルする可能性があること、そして出発した後も急な帰国があるかもしれないこと」を了承してもらい、参加させてもらうこととなったのです。

 

出発の前日、

「じゃ、行ってくるね!頑張ってくるからさ、お兄ちゃんも負けちゃダメだよ、帰ってくるの待っててね」とハイタッチしました。

本当はハグしたかったけど、さすがに仲良い兄妹でも恥ずかしいし(笑)ね。

 

そんな中、たくさんの想いを詰め込んだ遠征だったのです。

 



バイバイが言えないよ


7月15日、兄が他界しました。享年58歳。

お誕生日の前日だったので、まるまる58年間を生き抜いた人生は兄らしかったのだと思います。

 

6歳上の兄は幼い頃からカッコよくて大好きなお兄ちゃんでした。そこまで年の差があると、ケンカしたというのはほとんど無かった気がします。

どちらかと言えば、遊ばれていた?末に私が泣くというパターン(笑)。

 

アメリカ好きだった兄は、よく私に戦争ごっこをやらせました。もちろん彼はアメリカ軍。私はドイツ軍のヘルメットをかぶらされ、いらないシーツに穴を開けてそれもかぶらされ、空気銃を持たされました。

 

兄が高らかに「戦争ごっこ〜パパラッパパ〜〜〜」と言うと、私は標的にされ、連射されるのです。

 

もっと幼い頃のこと。

私はまだ三輪車に乗っていました。「俺が後ろから押してやる」と言って、家の前の道路を思い切り押され、私はカーブを曲がりきれずに大転倒し大泣きしました。もちろん兄は母から思いっきり怒られたはずですが、よく生きていたと思います。

 

そんな思い出は数えきれないほど。

 

もちろん優しい思い出も数えきれないほどあります。

 

中学2年の夏、シアトルに短期留学した時のこと。

ちょうど兄もアメリカのオレゴン州に留学していました。英語に困っていた私に「喉乾いたは、I’m thirsty、お腹すいたは、I’m hungry、何々したいは、I’d like to」とわざわざ顔を見に来てくれたんです。

 

私が高校生になった時のこと。

ちょこっとやんちゃだった私は、両親に心配をかけていました。夏休みに悪い友達とつるまないために、兄に相談し、私を海外へ連れ出すようにしたんです。

アメリカにいた兄は、日本に私を迎えに来てくれて、ハワイとLAへ連れて行ってくれました。初めての兄妹二人旅だったかも。

ハワイではレンタカー借りてドライブしたり、LAではUniversal Studioへ行ったり、楽しかったなぁ…

 

そうそう、私が留学していた頃。

当時ミシガン州にいた兄を訪ねて行ったっけ。パイロットの免許を取っていた兄は、得意げに「乗せてやるよ」といって、兄の操縦する狭いプロペラ機に乗りました。管制官と流暢な英語でやりとりした姿を見たときに、「うわ!すごい」と唸った記憶があります。

 

お互いに大人になり、距離があいた時もあったけど、とにかく仕事のたびにアチコチ転居する兄を訪ねて行っていました。

 

結婚して暮らしていたアリゾナ、その後日本に転勤になった先の神戸、横浜に引っ越してきた時は近かったし、よく行ったなぁ。

 

私が今、多くの時間をニセコで過ごし、活動拠点ともなっているのは兄がいたからこそです。

今から15年位前、当時ニセコばっかり行っていた兄に、「お兄ちゃん、ニセコで何やってるの?」と聞いても「教えてやらない」と言われていました。しかし、あることがキッカケでニセコを紹介してもらうようになり、それから私の人生は大きく変わりました。

 

今でこそ私の名前を覚えてもらっているけど、最初は誰にでも「アイクさんの妹なんだ」「へえ、妹いるんだね」なんて言われてたんです。

 

兄が50歳を過ぎ、私が40歳を過ぎたというのに、一緒にBCスキーや夏山に行ったり、SAPやカヤックに行ったり。

距離感が不思議な兄妹関係だった気がします。

 

 

それでも兄らしい反面も多々ありました。

私が乳がんになった時、手術や抗がん剤で辛い治療の期間がありました。当時一人暮らしだったのですが、「うちにおいで」と私を1年間半、引き取ってくれました。

 

味覚障害に陥って食欲がなかった時、食べられるものを買ってきてくれたり、精神的に辛くなりどうしようもなかった時、「海が見たい」というわがままを聞いてくれ車で館山に連れて行ってくれたり。

 

こうやって思い出を書いている目の前に、父と母に挟まれた兄の遺影があります。なんでそこにいるの?生きてないの?と、私の中では現実ではありません。

 

何か困った時や聞きたいことがある時に電話をすれば、「もしもし、なに?」と出てくれる気がします。

 

いつの日か受け入れられるのかなぁ…お兄ちゃん。



Elbrus遠征〜集合はモスクワ!〜


ツアーの集合はモスクワでした。

航空券は各自手配で、いつどこからどう来ようと勝手ですが、モスクワから乗る国内線は、「みんなこれ取ってね」という感じです。

まあ、ロシア自体を事前に旅しようとか、解散後はどっか行こうなどと言う訳ありませんが(さすがに不安)、せっかくなのでモスクワは1日早く行くことにしました。

 

蓋を開けてみたら、立本さんと参加者のSさん以外は全員1日早くモスクワへ入ることがわかり、ちょっと安心。

 

話しが飛びますが、今回の海外旅行保険は、ありえないほど高額でした。近年の登山ブームで保険をかける人が多いらしく、しかし使う人が多いのか、赤字保険のため撤退する会社が多いのです。

 

高所登山&アイゼンやピッケルを使うために、危険度が増し、なんと保険料が100,000越え!

 

ロシア国内線を含む航空券と、ほぼ同額という事実だったのです。

 

話しを戻しまして…

 

ロシアに入国するのは、今回が初ですが、ずーっと前にトランジットでモスクワ空港に寄ったことがあります。それは13歳のときに母に連れて行かれたヨーロッパ旅行の時で冷戦時代。当時ソ連の上空は飛べなかったのでアンカレッジ経由で、長い時間をかけてヨーロッパへ向かっていたと思います。

なぜ母がそうしたのか?は今になって謎ですが、ソ連自国の航空会社であるアエロフロートは上空を飛べるので、モスクワ経由でヨーロッパへ行ったのです。

 

子供の頃、乗り物酔いしやすい私は、アエロフロート機内の匂いにやっつけられ、モスクワに着いた時はヘロヘロ状態。乗り換えを待つ間中、モスクワ空港の長い椅子でずーっと寝てた記憶があります。

その印象は未だに鮮明で、今回ロシアに行くにあたり、そのイメージが拭い去れませんでした。

 

そう、グレーで重たい空、人が下をうつむいている、食べ物はマズいetc.

 

しかしそのイメージが一気に払拭!

青い空〜

白い雲〜

半袖でも暑いくらいの気温〜

 

なんてったって食事が美味しい!

もちろんお酒も!

<最高級に美味しかった!ビーフストロガノフ>

 

唯一大変といえば、モスクワでも英語が通じづらいということ。ちょっとしたカフェだとロシア語のメユーしかありませんでした。

 

まあ、有名どころは抑えたのでここからは写真で説明しますね。

 

<シェレメチボ空港では、ロシアワールドカップの絶賛準備中〜>

 

<空港近くのホテルだったので、街までは電車を利用。約30分くらい>

 

<街中はメトロを利用。見て、この素晴らしいのが駅です。それぞれの駅がアート空間>

 

<数々のイコン画が素晴らしかった>

 

<観光船に乗って、ゆっくりと街中を見学>

 

<昼間も良かったけど、このライトアップは素晴らしかった!右手がクレムリン、赤の広場にて>



Elbrus遠征〜準備編〜


すでにあちこち報告していますが、おかげさまで無事にエルブルスに登頂、そしてスキーにて滑降してくることができました!

 

201852211:00です(現地時間)。

 

色々ありました〜

しばらくブログも更新できてないので、何をどこから書けばいいのか…

ともあれ暑寒別まで書いたので、そこまで遡ってみますか。

 

暑寒別の時に痛切に身にしみたのは、用具の重さです。他の皆さんは全員がテックビンディングを使用していましたが、私はステップインタイプのビンディングでした。それだけでも相当なハンデです。

ステップインが悪いというのではなく、山を登る度合いが大きくなればなるほど、軽さというのが重要だということです。もちろん、ゲレンデでカービングターンを!というのであれば、ステップインの方が圧倒的に有利。用途によって適した用具があるのが現在のスキー、ということです。

 

もちろん私もスキーヤーですから、それは承知!

私のスキー活動をサポートしてくれているVectorGlideに相談して、軽いスキーとビンディングを用意してもらっていました。本当にありがたいことです。

 

残念ながら暑寒別には間に合わなかったのですが、下山後直行でICI札幌店に取りに行きました。

 

 

よし!これでOK

と意気揚々とニセコを引き上げ、東京へ戻りました。

ちなみに3か月半で実に6回目のフェリー旅…いい加減に慣れて、もうフェリーの達人(笑)。

 

その後は、自分のキャンプでかぐらへ。

そしてトレーニングを兼ね、再び立本さんのツアーで立山へ。

出発直前のGWは、自分のラストキャンプで鳥海山へ。

平日はもちろんピラティスレッスン。

 

という怒涛の日々を送っていました。

 

立本さんからは「とにかく走って!ハァハァゼイゼイすること!」と、お尻をペンペん叩かれていたので、雨で走れない時は数年前からの強い味方「タバタ式トレーニング」と「バレトン」を、家で地味に行っていました。

あっ、もちろんピラティスと筋トレは必須。

 

「タバタ式トレーニング」とは、インターバルトレーニングで、アプリがあるんです。30秒やって10秒休みを6セットとか、自分で設定できて、音で教えてくれるから結構便利なんですよね。

 

その合間を縫って、アコンカグアの時と同様に三浦Baseの低酸素トレーニングにも通いました。

他の皆さんはGW前半に富士山トレーニングへ行ったのですが、私は自分のキャンプがあるから参加できず…

少しでも高所不安を取り除こうと思い、出発前に6000mまで追い込みました。

 

荷物の準備もこれまた大変!

まあ、アコンカグアの時はベースキャンプから先の食事は自分たちで、だったのでそこまで大変ではありませんでしたが。

 

備忘録として。

  • 昼食などがわからなかったので、行動食の充実をはかる。また私はアレルギーがあるので、海外で食べられないものが多いので。エナジーバー、アマノフーズのFD食、ヤギショーのカレー、クリフバー、Shotsなど。

  • 疲労を蓄積しないためにアミノバイタル、ビタミン系サプリの準備。
  • 寒さ対策のためにヒートインソールを購入。リチウム電池の購入や使い方の練習をする。お恥ずかしい話、インソールをチョキチョキ切るときに、左右を間違えた。
  • ロシアの両替事情から、デビットカードを準備することにする。これは参加者の方からの情報によるもので、かなり助かった。
  • ちょっと色々あり、日本とマメに連絡を取る必要があるので、auへ行って海外でも使えるように設定する。定額980円/24時間だったので、助かった!
  • 預け入れ荷物の情報を調べたら、スキーは事前にリクエスト要とのことで、アエロフロートへ電話する。どうやら5/18まではキャンペーン期間中(日本からの集客のため)でスキーは無料とのこと。帰りは無理らしいことが判明。しかし、個々で連絡したのだが、対応がマチマチで、参加者のメールでは大混乱(苦笑)。最終的には出たとこ勝負となる。
  • 例の靴づれ対策のために、ネットで調べまくる。「かかとガード」なるものを購入して使ってみるがNG。結局、キズパワーパッド、リガード、キネシオテープでカバーすることに決定。あとはワセリンの力を信じる。
  • 春になりブーツがあたってきたので、スキーショップZEROへいき、シェル出しをしてもらう。左足完璧!右もして貰えば良かったと後悔。

 

 

こんなところでしょうか。

 

と、ようやく出発にこぎつけたのでした。

さて次からは遠征の様子を書きますね!



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